学習PROJECT代表の富岡です。
2022年7月より、月例で代表あいさつをさせていただきます。
今回は、私の信念の一つである”「I/愛」を引き受ける”というテーマについてお話ししたいと思います。
まずはじめに、皆さんは「I」を引き受けていますか?
このように問いかけられても、少し返答に困ってしまいますね。
私のいう”「I」を引き受ける”とは、自分の人生を生きるということです。
何を当たり前のことを言っているのかと思われるかもしれません。しかし、私の知る限り、大半の人は自分の人生を生きていないのです。
具体的にお話ししましょう。
自分の人生を生きていない人の特徴は、判断軸が常に「他人」にあります。
例えば、「常識ではこうだ」「一般的にはこう言われている」など、常識や一般論を自分の行動の判断軸にしてしまっています。
この「常識」や「一般論」はまさしく「他人」のつくったものでしかなく、それに思考停止して迎合している人が実に多いように感じます。
もちろん、常識や一般論には大切なものも多くあります。しかし、それを無批判に受け入れることが問題なのです。
もっと身近な例でいうと、「〇〇さんがやっているから自分も」とする態度もそうですね。
これも自分の行動の判断基準が「〇〇さん」という「他人」なのです。
「常識」や「一般論」、それと「他人」…。これらが自分の行動の基準になっている場合―多くの人がそうなのですが―自分の人生を捨ててしまっていることと同じなのです。
だからこそ、判断軸を転換して「I=私」にしてほしいのです。
常に他人を判断軸にしてしまいそうになったら「”私は”どうなのか?」と自問してほしいのです。
主語を「他人」ではなく「私」にしてほしいのです。
これこそまさしく、”「I」を引き受ける”ことにほかなりません。
常に周りをきょろきょろしている人は、必ず主語が「他人」なのです。
「常識が」「世間は」「一般的には」「〇〇さんは」…。
あなたもそうなっていませんか?
その瞬間、責任の所在を他人に押し付けて自分の人生を捨ててしまっているのです。
あなたはどうしたいのか。それが問われていることを忘れないでほしいのです。

しかし、「I」を引き受けるということは、大きな責任が自分にのしかかることにもなります。
おそらく、こうした責任の重圧に耐えかねて、人は「I」を引き受けることをやめてしまうのでしょう。
ドイツの実存主義哲学者マルティン・ハイデガーは、主著『存在と時間』の中でこのことを「不安」と的確に表現しています。
人は自分で何か判断しなくてはならなくなったとき、孤独で、正しさの基準も分からず、「不安」に陥ります。
「不安」に陥った人間は、「気晴らし」に逃避し、自分の人生を放棄してしまいます。「気晴らし」もハイデガー用語ですが、現実逃避・時間の浪費、くらいにとらえておきましょう。
いま最も主流な「気晴らし」がSNSです。
SNSは不特定の「〇〇さん」が何かをつぶやいており、そこに時間を浪費してしまうのは、現代人あるあるといってもよいでしょう。
ここで気づくと思いますが、SNSなどは「他人」の最たるものだということです。
私もつくづく気を付けなければならないなと思っていますが、あなたはどうですか?
ハイデガーは、こうした「気晴らし」に走る人間のことを「ダス・マン」と呼称しました。
この「ダス・マン」に陥らずに、「不安」を直視して、なお「自分の人生」=「I」を引き受けて未来に自分を投げ出す(「投企」と言います)ことが肝心なのです。
とはいうものの、やはり自分にのしかかる「責任」は重いものです。
自分の判断が間違っていたらどうしよう…。そんな思いに駆られるわけです。
だからこそ、私は「学習」が大事だと思うのです。
何かを知る、ということは、自分の世界を広げることにほかなりません。
知らない、ということは、「不安」の表れにほかなりません。
自分の人生をきちんと引き受けたいのであれば、年齢問わず「学習」してほしい。
こうした思いがあって、私は「”学習”PROJECT」と命名したのです。
勉強PROJECTでもなければ、受験PROJECTでもない。
多くの人が「I」を引き受けられることを願って「学習」の文字を選択したのです。
きちんと自分の人生を引き受ける、つまり「I」を引き受けることができるようになれば、必然的に「愛」も引き受けることができるようになります。
「I」を引き受けて生きている人は、その孤独や辛さを知り、その大切さも知っています。
それだけで様々な世界を見てきているのです。
彼らは決して人の足を引っ張ったりしません。偏った自己愛(ナルシシズム)に陥ってもいません。「I」を引き受けるとは、自己中心になることとは全く違うのです。
自分を正しく愛せる人間は、相手をきちんと愛することができます。
相手をきちんと愛せる人こそ、他者からも愛されるのです。
自分を見てほしい、こんなかわいそうな自分を憐れんでほしい…。こうした類は歪んだ自己愛(ナルシシズム)であり、本当の意味での「自己愛」ではないのです。
そしてなにより、こうした歪んだ自己愛は「私が私を愛する」のではなく、「他人が私を愛する」という発想に基づいていることにも気づくでしょう。
そうではなく、「私」を高める中でたくさんの学びをもつことで、広い視野で世界を見渡し、他者に思いやりの心を持てるようになることが真の「自己愛」なのです。
世界を知ることは、人を知ることです。
最後に哲学者ニーチェの言葉を引いて、あいさつとさせていただきます。
”豊かな物を探すことではなく、自分を豊かにすること。これこそが自分の能力を高める最高の方法であり、人生を豊かに生きていくことなのだ。”
(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ 『悦ばしき知識』)
2022年7月 学習PROJECT代表 富岡隆